八丁堀のまち・歴史  

八丁堀ってどんなところ?八丁堀の歴史や気になるスポットについて、クローズアップしてみました。


江戸湊の守り神  鉄砲洲稲荷湊神社

こちら、江戸時代の浮世絵に描かれた鉄砲洲神社とそのそばを流れる水路の様子を描いた歌川広重の浮世絵。

歌川広重   『名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社』  (1857年/安政4年)


霊岸島(現在の新川)から亀島川を望むと中央に稲荷橋、左手には鉄砲洲神社の朱色の壁と社殿があり、白い壁の蔵が並んでいます。(現在の湊1丁目、入船1丁目、新富町1丁目)。

船が行きかう奥にのびる水路と右手一帯にのびるあたりが八丁堀。

鉄砲洲というと現在の中央区湊となりますが、江戸時代の「八丁堀」は茅場町、湊、入船、新富町の一部を含み、'八町の堀があるあたり,を指していると考えらます。江戸湾から運び込まれる物資の水路として活用された八町長さの川の周りには、様々な商いが栄えるようになりました。

さて、浮世絵に戻ります。

左奥の方角には富士山が見えたのだそう。江戸時代の人々は、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く「富士信仰」を熱狂的に支持しました。この富士山信仰から、旧暦6月1日には富士詣をすることが江戸庶民の習慣、ついては楽しみであったのではないでしょうか。江戸の町あちらこちらに人工の富士塚が作られ、人々はこぞって富士詣をしたと言われています。

  1. 良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。
  2. 稼げは福貴にして、病なく命長し。
  3. 怠ければ貧になり病あり、命短し

現代にも通ずる、おてんとうさまは見ているよ、の考え方が江戸時代から脈々と続いているのが分かります。

駒込、浅草、四谷、深川とならび鉄砲洲もまた有名な富士塚であったとの史実には記されています。

下の浮世絵からも当時の富士詣の様子がうかがえます。

『江戸自慢三十六興 鉄砲洲いなり富士詣』   歌川豊国(三代)、歌川広重(二代)(1864年/元治元年 )

 富士塚に日傘をさして登っている人物が小さく描かれているのが分かりますか?  

現在の鉄砲洲神社(令和3年7月撮影)



鉄砲洲神社は明治元年に120m南に遷座されて以降、震災、戦禍などを経てきました。またこの富士塚も社殿とともに撤去、移転、復元など数々の変遷を遂げて今に至ります。(昭和初期建造の社殿等は中央区民有形文化財として登録されている。)